2014年02月14日
死の前後における「自分なら・・・、家族には・・・」問題
こんなつぶやきを目にしました。
「終活」その他のキーワードで、Twitterウォッチしているものですから。
自分が亡くなった時には遺骨は全部海に撒いといて欲しいなとカジュアルに考えちゃうけど、亡くなったのが他人だったら、やっぱりお墓に手を合わせたいなと思っちゃうな。と終活の特集を観て思った。
自分はこうしてほしいけど、家族や友人など身近な人を送る時は、別のことを望む。結構、ありがちな心理ですよね。延命治療についてなら「自分はさっさと死にたいけど、家族は一秒でも長く生きてほしい」。葬式やお墓なら「自分は簡素で金もかけなくて良いけど、家族にはちゃんとしてあげたい」。などなど。
自分の場合と身近な他者(いわゆる「二人称の死」)の場合で、スタンスが違う。この現象は、これからもさまざまなドラマ、とりわけ悲劇の元となりそうです。
ただ、こうした傾向があるということ自体は、広く知られていいのではないでしょうか。そして自分の希望を考え、表明する際には、家族など人生において深く関わった人がどう感じるかということも意識する、と。
死の前後について希望を述べるのを「わがまま」視する向きがあります。でも、それは中身や姿勢によるのであって、場合によっては「あとは任せる」だけで済ませるよりずっと思いやりに満ちた行為ともなりえるはずです。
その際の希望は、自分の生きざまをきちんと反映したものであってほしいですね。単なる思いつきや奇をてらったりウケを狙っただけの願望では、それをかなえてあげる側も面倒くさいだけですから。
さてこうしたズレを意識する上でも、年齢を重ねていく中で身近な人の死とどう向き合い、弔っていくか、ということはとても大切な「場数」となることでしょう。そうした経験を何度も重ね、自分なりに考えた人であれば、過剰でもないあっさりしすぎでもない、ほどほどの自己主張をできるはずです。過不足のないわがまま、とでも言いましょうか。
ちょうど来週、上記のような対に沿った二冊の本が発売されます。監修者は、同じホスピスケア研究会です。関心のある方は、手に取ってみてはいかが。