2013年09月12日

【ネット記事】死に逝く人の「孤独」について


沖縄で仕事されている40代の医師(感染症医)が、「幸福な死とは」ということについて考えた文です。



あまり語られることのない種類の話ですが、体験に基づくだけに耳を傾けるべきものがあります。

死に逝く人の「孤独」について - 感染症は国境を越えて - アピタル(医療・健康)

「死」とは極めて私的なものなのです。誤解を恐れずに例えるなら、「死」とは肉体による「いのち」の排泄行為であり、あるいは黄泉における「いのち」の出産行為といえます。その場面において、ときに人は苦しみ怒り、肉体の非業をさらけ出すことがあります。それはとても衆目に許せる類のものではありません。私は「死」とはもっと孤独であってもよいのではないかと思うのです。

実際、別れが来ることを自覚した患者さんは、この世から徐々に自分を切り離しながら孤独になり、その時に備えてゆきます。一気にすべてを失うことは、あまりに辛すぎるのかもしれません。だから、患者さんは仕事のことを忘れ、友人のことを忘れ、ついには家族のことすらも直視しなくなることがあるようです。


周囲の人間が「そばにいてあげないとかわいそうだから」とぴったり寄り添っているのは、必ずしも本人の望み通りではない、というケースがあるかもしれません。もちろん家族は家族で「いてあげたい」と思うでしょうし、きちんと看取ることはグリーフを軽減することにもつながります。互いの気持ちに上手く折り合いをつけるのが、ポイントでしょうね。

芸能人が孤独死した時も「悲惨」「惨め」といったトーンで語られることが多いようです。死後何週間とかそれ以上放置されていれば確かにそうかもしれませんが、死後数日程度なら話は別でしょう。これからの多死社会を迎えるにあたっては、「多くの人に見守られた死こそが幸福」といったステロタイプは、払拭した方が良いかもしれません。

普通に生活している人にとっては、人の死に目に遭う機会はそうそうあるものではありません。医師や看護師、それに介護従事者などから「死のリアル」を本音で語ってもらうのは、とても重要かと思います。そうした素地があれば、身近な人の死に対していくらか自然体でいられるかもしれません。あくまで「いくらか」ですが。

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