2013年09月03日

【新聞記事】読売新聞「言わせて!:私の終活」


読売新聞の投書コーナー「言わせて!」で、終活がテーマになっています。



私の終活…思い切って自宅を処分 : 言わせて! : yomiDr./ヨミドクター(読売新聞)

募集テーマは「私の終活」と「支え合い」です。地域や職場などで体験した助け合いの具体例や、日頃の思いなどをお寄せ下さい。住所、氏名(紙面では匿名可)、年齢、職業、電話番号を明記し、メール、ファクス、郵便で社会保障部へ。掲載分には薄謝を贈ります。


このテーマでシリーズとしてしばらく続くことになります。今回は初回ということで、身辺整理にまつわる投書が2件、選ばれていました。

大阪府吹田市の古野まささん(73)は、2人の子が独立後にピアノや写真など思い出の品が大量に残り、悩んでいたそうです。「でも、バリアフリー化が必要な年齢になり、部屋の改装に踏み切りました。不要な物の選別に手間取り、未練を断ち切るのも大変でした」

本などを大量に廃棄。家財道具は半減させて、リフォームを業者に発注。「老齢の我が家には大きな出費だったが、人生の大掃除をした気分。ただ、まだ多数あるアルバムをどうするか。主人と昔を懐かしみながら、ぼつぼつ整理しています」

川崎市の女性(69)は、思い切って自宅を処分したそうです。空き家が社会問題になるなか、息子たちが実家に住むことはもうないと判断し、決行しました。

「身の回りの物や古い家具はバザー、廃品回収、粗大ゴミなどに分けて『断捨離』し、本当にすっきり。今は1人用の賃貸住宅で年金や預貯金をやりくりして快適に暮らしている。子育てのため家を購入した多くの人は、家の始末に頭を抱えているのではないでしょうか」とつづります。


同年代で終活についての情報や知恵を共有する。あるいは、エンディングノートなどに自分の生前準備についての考えや、実際にやってみての苦労話、気づきなどを記載する。こうしたことがあれば、人々の終活への取り組みがさらに充実するのではないでしょうか。

とりあえず、このコーナーには次回以降も注目しておきます。

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この記事へのコメント

1. Posted by 新木 繁(あらき しげる)   2013年09月11日 15:24
私は現在67歳の男性です。3年前に上咽喉ガンを発病、頭蓋骨のど真ん中、脳味噌の真下という、厄介なところにできてしまったものです。第4ステージの入り口で、放射線と抗がん剤による治療を受けました。昨年秋、再発が見つかり、当病院では再発治療はできないということで、ガン研究センター柏病院で再治療を受けました。現在、検査では影のようなものが映像に現れ、再再発なのか炎症なのか、ほかの要因なのかつかめていませんが、そのせいか、頭痛が激しく、ほかの副作用も重なり、緩和ケアを受けています。私としては今度の痛みによる苦しみもあり、単に寿命を延ばす治療よりもクオリティライフを優先に、苦しみのない終末を強く希望し、ケアを受けている状況です。
特異かつ危険ななところにできたガンであり、臨床例も多くなく、先行きも甚だ不安定です。ただ
幸いにもガンという病気には、死ぬまでの時間が与えられます。あまた死因があるなかでも、そういう意味では恵まれているとも取れます。終活を考える余裕を与えられました。
私は終活の基本はその人の死生観から始まると思います。死と直面しているわけですから考えないわけにはいかないでしょう。私は40歳前後に無二の親友2人と父親の死に遭遇しており、そのころから宗教・思想関係の書物をむさぼり読んだり、キリスト教の教会に1年近く熱心に足を運んだり、様々な経験を通して、一つの確固たる死生観にたどり着きました。今生の肉体は滅びても、霊魂は不滅で、あの世はあるという結論です。幼くして不幸にも命を落とす例もあれば、様々な社会的な成功を収めながら大往生するという幸運に恵まれる人もいます。あまりにもこの世は理不尽に満ち満ちていませんか。しかし今生だけでなくあの世もあると信ずれば納得できるでしょう。万一死んであの世がなかったとしてもその時は意識もなにもないわけですからどちらでもいいですが、もし来生があればこんなに喜ばしいことはありません。2重の喜びです。ここまで来ると死はけっつして恐ろしいものではなく逆にある勇気を与えてくれるものになりませんか。このような考え方はすでに多くの識者も公表していることであり、珍しいことではないかもしれませんが、私はこのことを信じるようになってから、死を迎えるにあたり、何も怖いものがなくなり、いつでもどうぞというのが今の心境です。あとどれだけの時間が私に与えられているのか知りませんが、残された時間を精一杯有意義に生きる意味で、終活のいっかんとして自分の死生観にあった葬儀について考えてみました。
従来の一般的な葬儀のあり方に日頃より大きな疑問を持っていました。営業畑が長かったせいか、今まで多くの葬儀に出ましたが、儀礼的な、個人の顔も知らない葬儀になんども駆り出され、知り合いの葬儀の10倍以上は間違いなく出席しています。遠くまで泊りがけで足を運んだこともありました。習慣とは恐ろしいものです。葬儀はほとんどが予期しなくやってくる死に動転し、何も考えずとっさ的な判断で慣例的にならざるを得ないのでしょうか。
私は親類や知人が地方に住んでいる方が多いということもあり、家族葬を選び、近辺に起居している身内のみで簡単シンプルに執り行うつもりです。遠くまでわざわざ足を運んでもらうにはあまりにも忍びありません。その代り肝心の方には遺族から電話で丁重に連絡をさせていただき、そのほかの方たちには、日をおいて手紙を送らせて貰うことにしました。手紙の内容は、一般的儀礼的な家族葬で済ましたという案内と「故人よりの生前メッセージ」と題して、あらかじめ用意した交情いただいたお礼の手紙を添付します。その内容は吟味に吟味を重ねた最後の心からの叫びになるでしょう。特に親交の深かった人には個人あてに更なる思いを込めて作りたいとおもいます。これが私の立場からのほんとに心のこもったお別れの挨拶となります。このような考えに至ったのも確とした死生観ができてこそ、死なんて単なる転居のようなもの、またいつかどのような姿形であれ皆さんと再び関係することがあるんだよという気持ちになればこそできると確信を持っています。ご参考になればいいなと思い、投書してみました。
2. Posted by 遺言情報局   2013年09月12日 01:10
新木さま、コメントありがとうございます。
深い内容なので、投稿いただいた文を元に、新しい記事を書かせていただきます。

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