2012年04月04日

【新聞記事】自分らしく「人生の卒業式」 元中学校教諭のエンディングストーリー


中学校教諭だった一人の男性の「死にざま」を活写した記事。必読記事ですね、これは。



東京新聞:自分らしく「人生の卒業式」 元中学校教諭のエンディングストーリー:暮らし(TOKYO Web)

 終末期をどう迎えたいか-。「エンディングノート」などを活用して、人生の幕引きを自ら決める人が増えている。自分らしい最期を求めた、一人のがん患者のエンディングストーリーを取材した。 (林勝)

 二〇一一年六月十七日。「その日を人生の卒業式にしたい」

 末期の悪性リンパ腫(血液がんの一種)だった元中学校教諭、薦田(こもだ)耕太郎さん=当時(63)、大阪府吹田市=は、亡くなる四日前、病院に見舞いに来た長男、徹さん(35)に、家族に看(み)取られる日を告げた。耕太郎さんはスケジュール帳に「人生の卒業式」と書き付けた。「卒業シーズンとちゃうなぁ」と徹さん。互いに笑みがこぼれた。

 十七日の朝、耕太郎さんは、病院に泊まり込んだ徹さんや妻の幸子さん(61)、長女、裕子さん(32)、孫たち家族全員に見守られていた。病状の進行と痛み止めの薬の影響で意識が薄れていたが、苦しむ様子はなかった。

 午前九時半すぎ、呼吸が一段と浅くなった。家族の呼び掛けに耕太郎さんは、それまで閉じていた目をわずかに開け、ゆっくり一呼吸つくと、そのまま逝った。幸子さんは、耕太郎さんが最期に目で「ありがとう」を伝えてくれたと思った。

   "家族みんなに囲まれて「いい人生だったね」等と祝福され、自分も「ありがとう」と素直に答えられたらいいな。自分の人生に納得し、充実感をもち、明るく冷静にその時を迎えようと思う。"

 耕太郎さんはこの日の一年前、臨終の際の要望をまとめ、「人生の卒業式」と題した家族への手紙にこう記した。そして、家族で思いを共有してきた。

 〇二年四月に発症した。「病気と闘う」と宣言。資料を集めて勉強し、自己管理に努めて、抗がん剤治療を受けた。一方で、家族旅行など目標を立てて励みにした。「とにかく元気で、逆に私たちが支えられていた」と裕子さんは振り返る。

 病状が急変したのは、〇九年秋から翌春にかけて。がん細胞の増殖を示す値が急速に上昇していた。抗がん剤が効きにくくなり、耕太郎さんは死期が迫っていることを悟った。そんなときに「人生の卒業式」を書いた。

   "今後更に差し迫ってからでは自分自身の考えを思い通りに伝えられないかもしれないので、判断ができる今のうちにまとめておきたい。"

 こんな書き出しで始まる手紙を、徹さんに託した。内容は三点。

   "毎日を前向きに生きる▽不適切な延命はせず、それで死期が早まっても構わない。代わりに、苦痛を和らげる処置を最大限行う▽家族に囲まれて死を迎えたい-。"

 それ以降、耕太郎さんは、人生の幕引きの準備に取り組んだ。葬儀のやり方を決め、参列者への謝辞も用意。友人や近所の人たちへのあいさつ文もしたためた。

 体力が衰え、考えられる未来の幅がだんだんと狭まっていた。でも、前向きに生きる姿勢は変わらなかった。誕生日会など、何かにつけて家族のイベントを設け、それを楽しむことを目標にした。

 終末期ケアを受け始めてからも、自分の病状を友人らに携帯電話のメールで発信し続けた。そんな積み重ねが「人生の卒業式」のあの日につながったのではないか。家族は今、そう考えている。

 生前、献身的に看病した幸子さん宛てに、内緒で書いた手紙がある。

   "命の底から湧き出た様な明るさで、それがどんなにか自分を元気づけてくれたことか。(中略)これまでの緊張から解き放たれ、新たに明るく楽しい人生を生きてください。幸せな人生をありがとう。"

 幸子さんは心から思う。「ほんまに、あの人は生ききったんですわ」


映画「エンディングノート」を想起した方は、多いでしょうね。一般に生前準備には男性より女性の方が前向きですが、こんな風に段取りをしっかり付けるのは、仕事人間だった男性に多いのかもしれません。

遺された手紙、そして一緒に過ごした時間は、家族にとってかけがえのない思い出、宝物となったことでしょう。

薦田耕太郎さんの人生を描いた本がつくられたら、ぜひ読んでみたいですね。ビデオ映像が残っているなら、テレビのドキュメンタリーにしてほしものです。あるいはいっそのこと、ドラマ化。

亡くなったのは昨年の6月とのことですが、薦田さんのご冥福をお祈り申し上げます。

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