2013年06月17日

【新聞記事】河北新報のコラム「河北春秋」が、終活に言及


「少々違和感がある」と言っています。



終活全般というより、「終活フェア」と呼ばれるイベントへの疑問符とも言えますが。

河北新報/河北春秋

多くの不慮の死が、結果的に終活への関心を押し広げている。誰の身にも巡り来る最期の時をどう迎えるか。震災が突きつけた高齢社会のテーマの一つであろう▼とはいえ、それは中高年の生活術の枠には収まらない。むしろ今は、身近な死に直面した多くの子どもたちのための「死の準備教育」を急ぐべきではないか

▼被災地で肉親の死にけなげに向き合う子を何人も見た。それは壊れやすい人形細工に似ていた。欧米のように小学校から老いや死別の意味、悲しみの支えを教えるプロセスが要る。生き抜くための命の教育もそこから始まるはずだ


中高年の生活術より、子どもたちのための「死の準備教育」を、ということのようです。「終活フェア」の持つ一種の軽さが、被災者としては受け入れがたいのかもしれません。

震災が、エンディングノートや終活への関心を高める大きなきっかけとなったのは確かです。でもやはり、被災地とそれ以外ではその中身も違ってきて当然でしょうね。温度差とでも言いましょうか。そして「被災地」「被災者」と言っても、一括りにできない面もあるでしょうし。

ただ個人的な感想を言わせていただけば、震災がそれを経験した者にとって痛切な体験であることは事実でしょうが、それだけに拘泥するのは良くない気がします。被災者であっても、あるいは身内を震災で喪った人であっても、平時の生、そして平時の死に向き合って行かなければなりませんから・・・。

もとより、この考えを押しつける気はありません。あくまで部外者の無責任なつぶやきに過ぎないことは、承知しております。

ともあれ、長い目で見ると、被災地とそれ以外の地域の人とでは、終活のあり方が違ってきてしまうのでしょうね。そんなことを強く感じさせられた一文でした。

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